تسجيل الدخول奈々香の悲鳴が、青白い教室を裂いた。
手から投げ出されたスマートフォンは机の脚へ当たり、乾いた音を立てて床を滑った。二度、三度と跳ね、澄花の席の前で止まる。画面の右端から蜘蛛の巣のような亀裂が走り、配信映像が細かな破片へ分かれた。
「いや……いや、いる、そこにいる!」
奈々香は椅子を蹴るように後退した。膝裏が別の机へぶつかり、身体が傾く。美月が腕を掴み、倒れる寸前で支えた。
六人の視線が、同時に七つ目の席へ向いた。
椅子は空だった。
木目の明るい机。右端に置かれた赤い髪留め。引かれたままの椅子。その座面には、誰かが座っていた跡も、濡れた制服から落ちた水滴もない。
それでも澪には、空席の上だけ空気が沈んで見えた。
教室の湿気とは違う。人ひとり分の冷たさが、そこへ形を持って留まっている。
「触るな」
床へ手を伸ばしかけた悠斗を制し、朔がスマートフォンを拾った。
割れた硝子が掌へ食い込まないよう、手袋の指先で端を挟む。液晶は明滅していたが、配信はまだ切れていなかった。視聴者数は七人のまま。コメント欄だけが止まり、〈SUMIKA〉の名が亀裂の下で歪んでいる。
朔は機内モードへ切り替え、外部との接続を遮断した。それでも配信中の赤い印は消えない。
「どうして止まらないの」
奈々香の声は息に近かった。
「通信を切ってるのに」
「端末上の表示だけ残ってる可能性がある」
朔は画面を操作し、直前の映像を端末内へ保存した。指の動きは落ち着いていたが、再生画面を開いた瞬間、瞳の奥が僅かに狭くなる。
六人が映っている。
その背後、澄花の机には制服姿の少女が座っていた。
長い髪が顔を覆い、頬の輪郭すらほとんど見えない。右手首の赤いものだけが鮮明だった。映像が進むにつれ、少女はゆっくり顔を上げる。けれど、目元が現れる直前で画面が激しく乱れ、黒い横線に飲み込まれた。
「澄花なの?」
澪は朔の肩越しに覗き込んだ。
「判別できない」
「髪も、制服も同じだった」
「似せることはできる」
朔は映像を数秒戻した。
少女の輪郭の周囲に、僅かな揺らぎがある。明るさの違う映像を重ねたときに生じる境界にも見えた。
悠斗がそれを指した。
「合成だ。最初から撮っておいた女の映像を重ねてる」
「どうやってリアルタイムで?」
美月が問う。
「奈々香の配信機材に細工すればできる。使ってる機種も、活動を調べれば分かるだろ」
「触られた覚えなんてない」
奈々香が首を振る。
「昨日も家に置いてた。鍵も掛けてたし、誰も入ってない」
「澪の部屋にも誰か入った。お前が気づいてないだけかもしれない」
「違う」
透が言った。
低い声だったが、教室の全員が黙った。
透は奈々香のスマートフォンを受け取り、端子へ細い変換器を差し込んだ。自分のヘッドフォンを接続し、再生した映像の音声へ耳を澄ませる。
片方の耳当てを僅かにずらし、録音機の波形を確認する。指で数値を変えるたび、液晶上の細い線が分かれ、六つの山が浮かび上がった。
「何が違う」
朔が訊く。
「映像が加工されていたとしても、音までは説明できない」
透はヘッドフォンを外し、携帯用の小型スピーカーへ接続した。
「声を消して、呼吸と衣擦れだけ残す」
教室へ、低い雑音が流れた。
最初に聞こえたのは奈々香の息だった。短く、浅い。次に、机のそばで立つ悠斗の鼻から抜ける呼吸。美月の唇が擦れる音。澪自身の喉が小さく鳴る音。朔の一定した呼吸。少し離れた透の雨具が動く音。
六つ。
その奥に、もう一つあった。
ひゅう。
細く、震える息。
吸うたび、喉の奥に水が溜まっているような音が混ざる。息を吐くときには、歯の隙間から冷たい空気が漏れる。
ひゅう。
ひゅ、う。
泣くことを堪えている少女の呼吸だった。
奈々香が両手で口を覆う。
「どこから……」
透は波形の左右差を調整した。
「奈々香の端末の近くじゃない。右斜め後ろ、約二・四メートル」
全員の目が、澄花の机へ向いた。
「音は、そこから入ってる」
空の椅子が、微かに軋んだ。
誰も近づいていない。
朔が小型カメラを向ける。画面には机と椅子だけが映っている。
美月は救急鞄から細いライトを取り出し、教室の隅々を調べ始めた。窓の下。教壇の裏。掃除用具入れ。壁際のロッカー。
ロッカーの扉を一つずつ開くたび、錆びた蝶番が悲鳴のような音を立てた。中には古い教科書や朽ちた布が残るだけで、人が身を隠せる空間はない。
「窓は全部内側から錆びついてる」
美月は窓枠へ手袋の指を滑らせた。
「最近開けた跡もない。天井裏へ上がれる穴も見当たらない」
「机の下は?」
悠斗がしゃがみ込んだ。
七つの机の下には何もない。
澄花の机の裏だけ、指でなぞったように埃が薄くなっていた。
そこへ、細い文字が刻まれている。
みてるよ
澪は読んだ瞬間、背中へ視線を感じた。
振り返っても、教室の後方には黒板と閉じたロッカーしかない。
「ここを出る」
朔が端末を奈々香へ返した。
「仕掛けを調べるのは明るくなってからだ。今は校舎の外へ出る方法を探す」
「やっと帰る気になったのか」
悠斗が工具箱を持ち上げる。
「帰れるならな」
朔は澄花の机を最後まで見ていた。
教室の扉は、いつの間にか再び開いていた。
見えない壁も消えている。朔が懐中電灯を先へ出すと、今度は何にも遮られず、白い光が廊下の床へ伸びた。
六人は固まって移動した。
先頭は朔。続いて澪、美月、奈々香、透。悠斗が最後尾で工具と灯りを持つ。
「下へ降りる。玄関まで同じ道を戻る」
朔の声が、湿った廊下へ低く響く。
三階の階段へ向かう。
途中、黒板へ書かれていた赤い文字の跡は消えていた。落ちた照明器具だけが踊り場へ散らばり、切断面から流れていた赤い液体は黒く乾いている。
階段を下る。
一段ごとに、床板が鈍く鳴る。
二階の踊り場。
制服姿の少女が映った窓には、雨に煙る杉林しか見えない。
さらに下る。
朔が先に角を曲がり、立ち止まった。
澪はその背中へぶつかりかけた。
「どうしたの」
朔は答えず、懐中電灯を正面へ向けた。
白い光の先に、二年七組の札があった。
閉じた扉。
脇の黒板。
七つの机を隠す、見覚えのある磨り硝子。
「……下りたよね」
奈々香が囁いた。
「階段を二つ」
美月が腕時計を見る。
「三階から一階へ向かってた」
澪は階段へ振り返った。
確かに下へ向かって歩いた。途中で二階の窓も見た。踊り場に落ちた照明器具も越えた。足裏には階段を降り続けた重さが残っている。それなのに、窓の外の高さは変わっていなかった。杉の梢が、先ほどと同じ位置で硝子を擦っている。
八年前にも、似たことがあった気がした。
走っても走っても同じ廊下へ戻り、壁に書かれた教室番号だけが一つずつ増えていく。澄花が先頭で笑い、誰かが「いい映像になる」と言った。そこで記憶は途切れる。声の主を思い出そうとすると、額の奥へ鈍い痛みが走った。
澪はこめかみを押さえた。
「顔色が悪い」
朔がすぐに気づく。
「ここ、前にも迷ったことがなかった?」
朔の目が僅かに揺れた。
「覚えてない」
「本当に?」
「今は記憶を掘るな。呼吸を整えろ」
朔の手が背中へ触れかけ、途中で止まった。澪はその空いた距離に、八年間口にされなかった何かが横たわっているように感じた。
「別の棟へつながってるんだ」
悠斗が言う。
「古い建物だ。増築で階段の向きがおかしくなってるだけだろ」
「七刻女学校は三階建てよ」
「今いるのが別棟の二階かもしれない」
透は天井を見上げた。
「音が同じだ」
「何が」
「教室の中の呼吸」
二年七組の扉の向こうから、ひゅう、と浅い息がした。
六人は扉へ近づかず、廊下を逆方向へ進んだ。
最初の角で、朔が壁へ黒い撮影用テープを貼った。手のひらほどの長さに切り、矢印の形へ折る。
「これを目印にする。次の階段ではなく、渡り廊下を使う」
窓の外へ張り出した渡り廊下は、床板の一部が抜けていた。雨が吹き込み、金属の手摺から水が滴る。六人は壁際を一人ずつ進み、反対側の階段へ出た。
そこから二階へ下る。
右へ曲がる。
さらに長い廊下を進む。
朔は要所ごとにテープを貼り、カメラへ時刻と位置を残した。
「今度は違う」
奈々香が小さく言った。
見覚えのない音楽室の札があり、その先に家庭科室があった。二年七組から遠ざかっている。
だが、突き当たりの扉を開けた先には、同じ廊下が続いていた。
黒板。
二年七組の札。
澄花の呼吸。
「そんな……」
美月が後ろを見る。
通ってきたはずの家庭科室は消え、そこには三階の階段がある。
朔が壁を照らした。
貼った撮影用テープはない。
「剥がされたんだ」
悠斗が周囲へ光を向ける。
「誰かが俺たちの後ろをついてきてる」
「六人とも、互いを見ていた」
美月が言う。
「誰も離れてない」
「ほかに誰かいるって言ってるんだ!」
悠斗の声が裏返った。
透が天井へ録音機を向けた。
上から、粘着面が剥がれる音がした。
ぺり。
ゆっくりと。
ぺり、ぺり。
六人は一斉に見上げた。
天井の染みの中央に、黒い撮影用テープが貼られている。
朔が最初の角へ残した矢印だった。
矢の先は、二年七組の扉を指している。
奈々香が泣きそうな息を漏らした。
「誰が、あんなところに」
天井は三メートル以上ある。脚立も足場もない。テープは濡れた天井へぴたりと貼りつき、端から赤黒い水が一滴垂れた。
澪のコートの内側で、何かが動いた。
右のポケットが、ゆっくりと重くなる。
手を入れると、冷たい液体へ指が触れた。
赤い組紐が濡れている。
教室の木箱へ落ちたはずの組紐は、いつの間にか透明な袋ごとポケットへ戻っていた。袋の内側には赤黒い水が溜まり、絹糸の隙間から気泡が一つずつ浮かんでいる。
「澪、出して」
美月が手袋を着けた。
袋を受け取り、液体の匂いを確かめる。小さな綿へ吸わせ、携帯ライトの下で色を見る。
「血じゃない」
「本当に?」
「鉄分が多い水。錆が溶けてる。古い配管の中に溜まっていたような臭い」
安堵するように言われても、澪の指から冷たさは消えなかった。
袋を離したあとも、人差し指と親指の間に、組紐の感触が残っている。
とくん。
ほんの一度だけ。
赤い絹糸が脈打った。
澪は手を開いた。
指先には赤黒い水しかない。
「どうした」
朔が訊く。
「今、動いた気がした」
「糸が?」
澪は頷いた。
朔は袋を見つめ、手を伸ばしかけた。
そのとき、二年七組の中から甲高い音が鳴った。
ちん。
古い呼び出しベルの音だった。
一度。
間を置いて、二度目。
誰かが教室の中から、六人を呼んでいる。
「入るしかないってことかよ」
悠斗が歯を食いしばった。
朔は扉の脇へ立ち、全員が揃っていることを確認した。それから取っ手へ手を掛ける。
扉は抵抗なく開いた。
教室の照明は消えている。
七つの机は元の円形に戻り、澄花の席も空だった。割れた奈々香のスマートフォンだけが床から消えている。
教師用の机の上に、小さな銀色のベルが置かれていた。
誰も触れていないのに、押し金が上下する。
ちん。
音が止まると、机の引き出しが独りでに開いた。
内部に、一本の小型ビデオテープが入っている。
黒い樹脂のケースには薄く埃が積もっていたが、ラベルだけは新しかった。
朔が懐中電灯を近づける。
白い紙へ、黒い文字が三行並んでいる。
七刻女学校
八年前 未編集澪は文字を見た瞬間、朔の横顔を見た。
右上がりの細い筆跡。
角ばった「八」の形。
機材へ名前を書くとき、朔が使っていた字によく似ていた。
悠斗も気づいたらしく、ゆっくり顔を上げる。
「これ、お前が書いたのか」
朔は答えなかった。
教室のどこかで、少女が息を吸った。
今度は空席からではない。
朔のすぐ背後からだった。
「……上げて」 掠れた声は、階段下の暗闇から聞こえた。 男とも女とも判別できない。喉を潰した人間が、長いあいだ声を出さずにいたあと、無理に息を押し出したような音だった。 五人は動かなかった。 朔が十二段目へ膝をつき、懐中電灯を空洞へ向ける。 白い光が、壁面をゆっくり滑った。 深さは五メートルほど。 底には使われなくなった机や椅子が乱雑に積まれていた。錆びた金属脚が絡み合い、崩れた木製の天板が斜めに立っている。古い配管が壁に沿って下り、底には雨水らしい黒い水が薄く溜まっていた。 人影はない。「誰かいるのか!」 悠斗が叫んだ。 返事はなかった。 先ほどまで聞こえていた爪の音さえ消えている。「空耳……?」 奈々香が美月の腕を掴んだ。「五人とも聞いた」 美月は空洞から目を離さない。「少なくとも、私には聞こえた」 澪も頷きかけた。 そのとき。 朽ちた椅子の隙間で、白いものが動いた。 細い指。 血の気のない小さな手が、折れた机の陰から一瞬だけ伸びたように見えた。「待って」 澪が一歩前へ出る。「今、手が」「何?」「下に誰かいる」 朔が光を戻す。 椅子の隙間。 何もない。「澪、離れて」 美月が肩へ触れた。「人がいるなら救助が必要。でも、まず安全を確認する。五メートルはある。下の床が抜けている可能性も――」「私が下りる」「駄目」「誰かがいるかもしれない」「だからこそ一人では下りない」 美月は強く言った。「さっき悠斗が落ちかけたばかりでしょう」 澪は空洞を見下ろした。 声。 白い手。 そして、耳の奥に蘇る八年前の澄花。『澪ちゃん。開けて』 助けを求める声を聞いた。 それなのに逃げた。 今度も同じことをしたら。「途中まででいい」 澪は朔を見る。「ロープをつけて。何かあったらすぐ引き上げて」「俺が行く」「朔じゃ駄目」「理由は」「私が見たから」 澪の声が僅かに震えた。「白い手を見たのは私。もしまた、私にしか見えてないものなら……私が確かめる」 朔は数秒黙った。 反対したのは美月だった。「危険すぎる」「でも、人がいるなら」「救助する側まで落ちたら意味がない」「分かってる」 澪は自分の腰へ手を当てた。「だからロープを使う」 朔は空洞と澪を交互に見た。 やがて、悠斗
少女が「十三」と数えた直後、東棟の照明がすべて消えた。 暗闇は一瞬だった。 それでも澪には、その短いあいだに誰かが階段を一段上ったように聞こえた。 こつ。 硬い上履きの底が、木の踏み板へ触れる音。 続いて蛍光灯が白く明滅した。 十二段しかないはずの階段の最上部に、もう一段増えていた。「……何、あれ」 奈々香が美月の袖を握る。 誰も答えなかった。 澪は階段を見上げた。 一階から踊り場まで、十二段。 八年前にも上った。今夜も何度も通った。幅の狭い古い階段で、七段目だけ踏むと軋む。十一段目には大きな欠けがあり、十二段目を越えれば踊り場へ出る。 その十二段目の上に、見覚えのない黒い踏み板があった。 十三段目。 しかも、その先に廊下が続いている。 三階へ上がる階段ではない。 踊り場の壁がなくなり、さらに上の階へ向かう長い廊下が伸びていた。 薄暗い窓。 左右へ並ぶ教室の扉。 天井から垂れる蛍光灯。 突き当たりの壁だけが、霧の中へ溶けるように見えない。「四階……?」 美月が呟く。「ない」 悠斗が即座に否定した。 声がひどく乾いている。「この校舎は三階建てだ」「図面にも?」 澪が訊く。「ない。屋上の設備室ならあるが、人が歩ける階じゃない」 朔は階段へ近づかず、小型カメラを構えた。「全員、その場から動くな」 液晶に十三段目と四階らしき廊下が映っている。 今度は、カメラにも存在していた。 朔は角度を変えた。 正面から。 壁際から。 床近くから。 どの角度でも、十三段目はある。 突然、照明が消えた。「動かないで!」 美月の声。 数秒後、明かりが戻る。 十三段目は消えていた。 その先の四階もない。 十二段目の先には、いつもの踊り場の壁がある。 奈々香が息を呑む。「今、なかった」「ああ」 朔はカメラを確認する。「映像からも消えてる」 また照明が瞬いた。 一度暗くなる。 白い光が戻る。 十三段目。 四階。 存在する。 照明の明滅に合わせ、建物そのものが形を変えているようだった。 澪のスマートフォンが震えた。 続いて四人の端末も同時に鳴る。 七つの学校章。 赤く塗られているのは三つ。 七人目の出席。 校歌。 姿見。 その下へ新しい文章が表示された。 十三段目に
東棟の階段から響いた重い音は、十三度目で止まった。 どん、と最後の一音が校舎の底へ沈み、そのあとには非常ベルだけが残った。 赤い警告灯が明滅するたび、割れた鏡の破片が床の上で光る。つい先ほどまで、その一枚には透の姿が映っていた。 階段へ行くな。 死んだ透の唇は、確かにそう動いていた。「行かない」 澪が言った。 自分でも驚くほど強い声だった。 悠斗が東棟へ続く扉を見た。「でも、今の音を確認しないと――」「透が行くなって言った」「鏡に映ったものを信用するのか?」「今は、何も確認できてないまま近づく方が危ない」 美月も澪の隣へ立った。「賛成。さっきのは人が階段から落ちた音にも聞こえた。でも、本当に人なら声くらい出てもおかしくない。先にここで分かることを調べる」 奈々香は返事もしなかった。左耳に当てたガーゼを押さえ、割れた鏡を見ないよう俯いている。 朔だけは非常ベルの周期を数えていた。 やがて胸元へ固定した小型カメラを外す。「舞踊室の映像を見る」 悠斗が苛立ったように振り返った。「今?」「今だからだ。俺たちが見たものと、記録されたものが一致してるか確認する」 その言葉に、澪の胸元で手帳が重くなった。 中には、澄花の字で書かれた楽譜が挟まれている。 朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない。 その一文を、澪はまだ誰にも見せていない。 朔は床へ膝をつき、カメラの液晶を開いた。 五人が横一列に並ぶところから映像を戻す。 一往復目。 五人。 二往復目。 五人。 澪たちの記憶では、鏡の中の悠斗だけが半歩遅れた。 だが保存映像では、悠斗もほかの四人と同じ速さで動いている。「違う」 澪が画面へ顔を近づけた。「ここ。悠斗が遅れたはず」「遅れてないな」 美月も確認する。 三往復目。 現実では、鏡の中の奈々香が一人だけ立ち止まった。 映像の中では、五人全員が同じ歩調で端まで進んでいる。「私、止まってたよね」 奈々香が掠れた声を出した。「鏡の中の私だけ。みんな見たよね」「見た」 澪が答える。 美月も頷いた。 四往復目。 澪の呼吸が浅くなる。 このとき、鏡の中には六人いた。 五人の後ろを、制服姿の少女が歩いていた。 右手首には赤い組紐。 けれど、小型カメラの映像には五人しか
西棟一階へ近づくにつれ、雨音が遠くなった。 代わりに、五人の足音だけが長い廊下へ乾いて響く。 東棟よりも荒廃が進んでいるらしく、天井には幾つもの穴が開き、壁紙は湿気を吸って垂れ下がっていた。窓硝子の半分は割れ、黒い板で塞がれている。 それでも、突き当たりにある両開きの扉だけは、不自然なほど形を保っていた。 曇った金属板へ、かすれた文字が残っている。 舞踊室。「ここ……」 奈々香が足を止めた。「覚えてる」 声は小さい。 左耳には美月が当てた薄いガーゼが残っていた。出血は止まっているが、何度も耳へ指を伸ばしかけては、途中で思い直して腕を下ろしている。「八年前に来たよね」「来た」 悠斗が答えた。 迷いのない声だった。「ここの鏡が七不思議の一つだった」 朔は扉の前でしゃがみ、下部へ懐中電灯を向けた。 細い隙間から、埃の積もった床が見える。 糸や配線はない。「どんな噂だった?」 美月が悠斗へ尋ねる。 悠斗は扉の取っ手へ手を掛けながら言った。「午前零時を過ぎて、鏡の前を全員で歩く」 低い軋みとともに扉が開く。「最後の一人だけ、鏡の中に残される」 舞踊室の暗闇が現れた。「残った奴は、翌朝までに消える」 澪の背中を冷たいものが走った。 部屋は細長かった。 奥行きのある長方形で、床には古い木板が敷かれている。壁際には朽ちた手摺が残り、その上を白い黴が這っていた。 そして、左側の壁一面。 端から端まで、巨大な鏡で覆われている。 幾つもの鏡板を並べて作られたものだった。 表面はところどころ黒く曇り、細かなひびも入っている。それでも五人の姿を映すには十分だった。 澪。 朔。 美月。 悠斗。 奈々香。 五人。 鏡の中にも五人。 赤い組紐の入った袋が、澪のポケットの中で僅かに冷たくなった。「当時は何も起きなかった」 悠斗が部屋へ入りながら言った。「澄花がふざけて隠れただけだった」 澪は顔を上げた。「隠れた?」「ああ」「ここで?」「そうだ」 悠斗は当然のことのように答える。「七人で鏡の前を歩いて、最後に数えたら六人しかいなかった。奈々香が泣いて、美月が怒って。あとで澄花が裏から出てきた」「裏って、どこ」「カーテンの向こうか何かだっただろ」 澪は舞踊室を見回した。 壁際にカーテンはない
最後の鍵盤が沈んだまま、戻らなかった。 音楽室の中には、逆向きに流れる少女たちの歌声だけが残っている。 声は天井のスピーカーから降っているはずなのに、澪には壁の内側や床の下、閉ざされた楽器棚の奥からも聞こえた。吸い込まれるような発音。終わった言葉から始まり、息継ぎまで逆へ流れていく。 五人は誰も耳を塞がなかった。 スマートフォンに届いた指示が頭から離れない。 途中で耳を塞いだ人は帰れません。 たとえ人間が作った脅しだとしても、透が死んだあとでは試す気になれなかった。 奈々香は両腕を身体の脇へ押しつけるようにして立っている。耳を塞がない代わりに、指先がレインコートの布を強く掴んでいた。「何か入ってる」 朔が言った。 胸元の小型カメラを外し、録音状態を確認している。「歌以外に?」 美月が問う。「低い声。普通に聞くと潰れてる」 朔はカメラから音声だけを端末へ送り、波形を表示した。 透ほど専門的な機材ではない。それでも映像制作の現場で使う程度の処理はできるらしく、朔は周波数を分け、歌声の高い帯域を少しずつ削っていく。 少女たちの声が薄くなる。 その下から、ざらついた息のようなものが現れた。「逆向きだから分かりにくい」 朔の指が画面を滑る。「戻す」 再生方向を反転させる。 さっきまで喉へ吸い込まれていた声が、今度は自然な歌になった。 古い校歌。 少女たちの合唱。 八年前に澪が廊下で聞いたものと同じだった。 胸の奥がざわつく。 窓の外では雨が降り続いている。楽譜の散らばる床を湿気が這い、腐りかけた木材の匂いへ、古いピアノの塗料と錆の臭いが混ざっていた。 歌声の下に、別の声があった。 小さい。 ひどく近い。『鏡を見て』 澪の肩が強張る。 朔が音量を上げる。『本当の人数は、鏡に映る』 音声が途切れた。 五人は同時に、音楽室の奥を見た。 壁際に、大きな姿見が立っていた。 澪は先ほどまで意識していなかった。 高さは一メートル半ほど。木製の枠は黒ずみ、上部の装飾が半分欠けている。鏡面には斜めへ大きな亀裂が走り、蜘蛛の巣状の細い割れが右下へ広がっていた。「こんなの、あった?」 奈々香が囁く。「最初からあった」 悠斗が答える。「入ったとき、壁際に見えた」「私は見てない」「見てないだけだろ」 奈々
ピアノは、同じ四小節を繰り返していた。 低い音から始まり、少しずつ高くなる。 途中で一度だけ旋律が途切れ、また最初へ戻る。 廊下の奥。 音楽室の方角。 誰もいないはずの校舎で、一つの鍵盤を人の指が押し、その余韻が消える前に次の鍵盤が沈んでいる。「行かないと駄目なの?」 奈々香がスマートフォンを握ったまま言った。「二つ目は音楽室って書いてあるだけでしょ。無視して出口を探そうよ」「さっき無視しようとして、教室の前へ戻された」 悠斗が答える。「なら、また戻されるだけじゃん!」「声を落とせ」「無理だよ!」 奈々香の声が廊下へ響く。「透が死んでるんだよ。なのに今度は校歌を聞けって? そんなの従ってたら、次に誰が死ぬの?」 その言葉に、全員の視線が担架へ落ちた。 相馬透。 美月の上着を掛けられ、簡易担架に横たわっている。 教室の出席簿では欠席とされ、死んだあとで自分の声を使って返事をした男。 朔が担架の端を持ち直した。「先に透をどうするか決める」「どうするって、運ぶでしょう」 美月が即座に答えた。「さっき決めた」「このまま音楽室へ運ぶのは危険だ」 悠斗が反論する。「狭い防音扉もある。何か起きたとき、担架を持ってたら動けない」「ここへ放置する方が危険よ」「死んだ人間が、これ以上危険になるのか」 美月の視線が冷たくなる。「遺体は証拠よ」「証拠?」「首の傷。磁気テープ。手指に残った傷。衣服。誰かが触れば変わる。私たちが外へ出て警察へ引き渡すまで、できるだけ状態を残す必要がある」「じゃあ担架で連れ回して、階段から落としたらどうする」「置いていけば、誰かに動かされるかもしれない」「誰が」 悠斗が苛立ったように周囲を見回した。「この校舎にいる犯人が?」「そう」 美月は迷わなかった。「少なくとも、透を殺すための装置を作った人間はいる。誰かが透明な糸を使った。小型モーターを取りつけた。放送設備にも細工した。人間が触った痕跡がある」 朔が二年七組を振り返った。 机が七つ並ぶ教室。 扉は開いたままだ。「ここへ置く」 澪が彼を見る。「大丈夫なの?」「扉を内側から固定する。窓も確認する。侵入されたら分かるように痕跡を残す」「私たちが戻れなかったら」 奈々香が言う。 朔は一瞬黙った。「戻る」 断