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第7話 七人目の呼吸

مؤلف: なつめ
last update تاريخ النشر: 2026-08-04 08:55:23

 奈々香の悲鳴が、青白い教室を裂いた。

 手から投げ出されたスマートフォンは机の脚へ当たり、乾いた音を立てて床を滑った。二度、三度と跳ね、澄花の席の前で止まる。画面の右端から蜘蛛の巣のような亀裂が走り、配信映像が細かな破片へ分かれた。

「いや……いや、いる、そこにいる!」

 奈々香は椅子を蹴るように後退した。膝裏が別の机へぶつかり、身体が傾く。美月が腕を掴み、倒れる寸前で支えた。

 六人の視線が、同時に七つ目の席へ向いた。

 椅子は空だった。

 木目の明るい机。右端に置かれた赤い髪留め。引かれたままの椅子。その座面には、誰かが座っていた跡も、濡れた制服から落ちた水滴もない。

 それでも澪には、空席の上だけ空気が沈んで見えた。

 教室の湿気とは違う。人ひとり分の冷たさが、そこへ形を持って留まっている。

「触るな」

 床へ手を伸ばしかけた悠斗を制し、朔がスマートフォンを拾った。

 割れた硝子が掌へ食い込まないよう、手袋の指先で端を挟む。液晶は明滅していたが、配信はまだ切れていなかった。視聴者数は七人のまま。コメント欄だけが止まり、〈SUMIKA〉の名が亀裂の下で歪んでいる。

 朔は機内モードへ切り替え、外部との接続を遮断した。それでも配信中の赤い印は消えない。

「どうして止まらないの」

 奈々香の声は息に近かった。

「通信を切ってるのに」

「端末上の表示だけ残ってる可能性がある」

 朔は画面を操作し、直前の映像を端末内へ保存した。指の動きは落ち着いていたが、再生画面を開いた瞬間、瞳の奥が僅かに狭くなる。

 六人が映っている。

 その背後、澄花の机には制服姿の少女が座っていた。

 長い髪が顔を覆い、頬の輪郭すらほとんど見えない。右手首の赤いものだけが鮮明だった。映像が進むにつれ、少女はゆっくり顔を上げる。けれど、目元が現れる直前で画面が激しく乱れ、黒い横線に飲み込まれた。

「澄花なの?」

 澪は朔の肩越しに覗き込んだ。

「判別できない」

「髪も、制服も同じだった」

「似せることはできる」

 朔は映像を数秒戻した。

 少女の輪郭の周囲に、僅かな揺らぎがある。明るさの違う映像を重ねたときに生じる境界にも見えた。

 悠斗がそれを指した。

「合成だ。最初から撮っておいた女の映像を重ねてる」

「どうやってリアルタイムで?」

 美月が問う。

「奈々香の配信機材に細工すればできる。使ってる機種も、活動を調べれば分かるだろ」

「触られた覚えなんてない」

 奈々香が首を振る。

「昨日も家に置いてた。鍵も掛けてたし、誰も入ってない」

「澪の部屋にも誰か入った。お前が気づいてないだけかもしれない」

「違う」

 透が言った。

 低い声だったが、教室の全員が黙った。

 透は奈々香のスマートフォンを受け取り、端子へ細い変換器を差し込んだ。自分のヘッドフォンを接続し、再生した映像の音声へ耳を澄ませる。

 片方の耳当てを僅かにずらし、録音機の波形を確認する。指で数値を変えるたび、液晶上の細い線が分かれ、六つの山が浮かび上がった。

「何が違う」

 朔が訊く。

「映像が加工されていたとしても、音までは説明できない」

 透はヘッドフォンを外し、携帯用の小型スピーカーへ接続した。

「声を消して、呼吸と衣擦れだけ残す」

 教室へ、低い雑音が流れた。

 最初に聞こえたのは奈々香の息だった。短く、浅い。次に、机のそばで立つ悠斗の鼻から抜ける呼吸。美月の唇が擦れる音。澪自身の喉が小さく鳴る音。朔の一定した呼吸。少し離れた透の雨具が動く音。

 六つ。

 その奥に、もう一つあった。

 ひゅう。

 細く、震える息。

 吸うたび、喉の奥に水が溜まっているような音が混ざる。息を吐くときには、歯の隙間から冷たい空気が漏れる。

 ひゅう。

 ひゅ、う。

 泣くことを堪えている少女の呼吸だった。

 奈々香が両手で口を覆う。

「どこから……」

 透は波形の左右差を調整した。

「奈々香の端末の近くじゃない。右斜め後ろ、約二・四メートル」

 全員の目が、澄花の机へ向いた。

「音は、そこから入ってる」

 空の椅子が、微かに軋んだ。

 誰も近づいていない。

 朔が小型カメラを向ける。画面には机と椅子だけが映っている。

 美月は救急鞄から細いライトを取り出し、教室の隅々を調べ始めた。窓の下。教壇の裏。掃除用具入れ。壁際のロッカー。

 ロッカーの扉を一つずつ開くたび、錆びた蝶番が悲鳴のような音を立てた。中には古い教科書や朽ちた布が残るだけで、人が身を隠せる空間はない。

「窓は全部内側から錆びついてる」

 美月は窓枠へ手袋の指を滑らせた。

「最近開けた跡もない。天井裏へ上がれる穴も見当たらない」

「机の下は?」

 悠斗がしゃがみ込んだ。

 七つの机の下には何もない。

 澄花の机の裏だけ、指でなぞったように埃が薄くなっていた。

 そこへ、細い文字が刻まれている。

 みてるよ

 澪は読んだ瞬間、背中へ視線を感じた。

 振り返っても、教室の後方には黒板と閉じたロッカーしかない。

「ここを出る」

 朔が端末を奈々香へ返した。

「仕掛けを調べるのは明るくなってからだ。今は校舎の外へ出る方法を探す」

「やっと帰る気になったのか」

 悠斗が工具箱を持ち上げる。

「帰れるならな」

 朔は澄花の机を最後まで見ていた。

 教室の扉は、いつの間にか再び開いていた。

 見えない壁も消えている。朔が懐中電灯を先へ出すと、今度は何にも遮られず、白い光が廊下の床へ伸びた。

 六人は固まって移動した。

 先頭は朔。続いて澪、美月、奈々香、透。悠斗が最後尾で工具と灯りを持つ。

「下へ降りる。玄関まで同じ道を戻る」

 朔の声が、湿った廊下へ低く響く。

 三階の階段へ向かう。

 途中、黒板へ書かれていた赤い文字の跡は消えていた。落ちた照明器具だけが踊り場へ散らばり、切断面から流れていた赤い液体は黒く乾いている。

 階段を下る。

 一段ごとに、床板が鈍く鳴る。

 二階の踊り場。

 制服姿の少女が映った窓には、雨に煙る杉林しか見えない。

 さらに下る。

 朔が先に角を曲がり、立ち止まった。

 澪はその背中へぶつかりかけた。

「どうしたの」

 朔は答えず、懐中電灯を正面へ向けた。

 白い光の先に、二年七組の札があった。

 閉じた扉。

 脇の黒板。

 七つの机を隠す、見覚えのある磨り硝子。

「……下りたよね」

 奈々香が囁いた。

「階段を二つ」

 美月が腕時計を見る。

「三階から一階へ向かってた」

 澪は階段へ振り返った。

 確かに下へ向かって歩いた。途中で二階の窓も見た。踊り場に落ちた照明器具も越えた。足裏には階段を降り続けた重さが残っている。それなのに、窓の外の高さは変わっていなかった。杉の梢が、先ほどと同じ位置で硝子を擦っている。

 八年前にも、似たことがあった気がした。

 走っても走っても同じ廊下へ戻り、壁に書かれた教室番号だけが一つずつ増えていく。澄花が先頭で笑い、誰かが「いい映像になる」と言った。そこで記憶は途切れる。声の主を思い出そうとすると、額の奥へ鈍い痛みが走った。

 澪はこめかみを押さえた。

「顔色が悪い」

 朔がすぐに気づく。

「ここ、前にも迷ったことがなかった?」

 朔の目が僅かに揺れた。

「覚えてない」

「本当に?」

「今は記憶を掘るな。呼吸を整えろ」

 朔の手が背中へ触れかけ、途中で止まった。澪はその空いた距離に、八年間口にされなかった何かが横たわっているように感じた。

「別の棟へつながってるんだ」

 悠斗が言う。

「古い建物だ。増築で階段の向きがおかしくなってるだけだろ」

「七刻女学校は三階建てよ」

「今いるのが別棟の二階かもしれない」

 透は天井を見上げた。

「音が同じだ」

「何が」

「教室の中の呼吸」

 二年七組の扉の向こうから、ひゅう、と浅い息がした。

 六人は扉へ近づかず、廊下を逆方向へ進んだ。

 最初の角で、朔が壁へ黒い撮影用テープを貼った。手のひらほどの長さに切り、矢印の形へ折る。

「これを目印にする。次の階段ではなく、渡り廊下を使う」

 窓の外へ張り出した渡り廊下は、床板の一部が抜けていた。雨が吹き込み、金属の手摺から水が滴る。六人は壁際を一人ずつ進み、反対側の階段へ出た。

 そこから二階へ下る。

 右へ曲がる。

 さらに長い廊下を進む。

 朔は要所ごとにテープを貼り、カメラへ時刻と位置を残した。

「今度は違う」

 奈々香が小さく言った。

 見覚えのない音楽室の札があり、その先に家庭科室があった。二年七組から遠ざかっている。

 だが、突き当たりの扉を開けた先には、同じ廊下が続いていた。

 黒板。

 二年七組の札。

 澄花の呼吸。

「そんな……」

 美月が後ろを見る。

 通ってきたはずの家庭科室は消え、そこには三階の階段がある。

 朔が壁を照らした。

 貼った撮影用テープはない。

「剥がされたんだ」

 悠斗が周囲へ光を向ける。

「誰かが俺たちの後ろをついてきてる」

「六人とも、互いを見ていた」

 美月が言う。

「誰も離れてない」

「ほかに誰かいるって言ってるんだ!」

 悠斗の声が裏返った。

 透が天井へ録音機を向けた。

 上から、粘着面が剥がれる音がした。

 ぺり。

 ゆっくりと。

 ぺり、ぺり。

 六人は一斉に見上げた。

 天井の染みの中央に、黒い撮影用テープが貼られている。

 朔が最初の角へ残した矢印だった。

 矢の先は、二年七組の扉を指している。

 奈々香が泣きそうな息を漏らした。

「誰が、あんなところに」

 天井は三メートル以上ある。脚立も足場もない。テープは濡れた天井へぴたりと貼りつき、端から赤黒い水が一滴垂れた。

 澪のコートの内側で、何かが動いた。

 右のポケットが、ゆっくりと重くなる。

 手を入れると、冷たい液体へ指が触れた。

 赤い組紐が濡れている。

 教室の木箱へ落ちたはずの組紐は、いつの間にか透明な袋ごとポケットへ戻っていた。袋の内側には赤黒い水が溜まり、絹糸の隙間から気泡が一つずつ浮かんでいる。

「澪、出して」

 美月が手袋を着けた。

 袋を受け取り、液体の匂いを確かめる。小さな綿へ吸わせ、携帯ライトの下で色を見る。

「血じゃない」

「本当に?」

「鉄分が多い水。錆が溶けてる。古い配管の中に溜まっていたような臭い」

 安堵するように言われても、澪の指から冷たさは消えなかった。

 袋を離したあとも、人差し指と親指の間に、組紐の感触が残っている。

 とくん。

 ほんの一度だけ。

 赤い絹糸が脈打った。

 澪は手を開いた。

 指先には赤黒い水しかない。

「どうした」

 朔が訊く。

「今、動いた気がした」

「糸が?」

 澪は頷いた。

 朔は袋を見つめ、手を伸ばしかけた。

 そのとき、二年七組の中から甲高い音が鳴った。

 ちん。

 古い呼び出しベルの音だった。

 一度。

 間を置いて、二度目。

 誰かが教室の中から、六人を呼んでいる。

「入るしかないってことかよ」

 悠斗が歯を食いしばった。

 朔は扉の脇へ立ち、全員が揃っていることを確認した。それから取っ手へ手を掛ける。

 扉は抵抗なく開いた。

 教室の照明は消えている。

 七つの机は元の円形に戻り、澄花の席も空だった。割れた奈々香のスマートフォンだけが床から消えている。

 教師用の机の上に、小さな銀色のベルが置かれていた。

 誰も触れていないのに、押し金が上下する。

 ちん。

 音が止まると、机の引き出しが独りでに開いた。

 内部に、一本の小型ビデオテープが入っている。

 黒い樹脂のケースには薄く埃が積もっていたが、ラベルだけは新しかった。

 朔が懐中電灯を近づける。

 白い紙へ、黒い文字が三行並んでいる。

 七刻女学校

 八年前

 未編集

 澪は文字を見た瞬間、朔の横顔を見た。

 右上がりの細い筆跡。

 角ばった「八」の形。

 機材へ名前を書くとき、朔が使っていた字によく似ていた。

 悠斗も気づいたらしく、ゆっくり顔を上げる。

「これ、お前が書いたのか」

 朔は答えなかった。

 教室のどこかで、少女が息を吸った。

 今度は空席からではない。

 朔のすぐ背後からだった。

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